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出西窯は1947年(昭和22年)8月、農村工業の共同体構想を掲げた5名の青年(井上寿人、陰山千代吉、多々納弘光、多々納良夫、中島空慧)と2名の賛助者の協力によって創業しました。 1950年(昭和25年)7月、共同体の運営に悩みますが、隣町の隆法寺住職で哲学者の山本空外上人を訪ね終生の指導を仰ぐとともに、同年8月には、陶芸家河井寛次郎を迎え指導を受け、この時に実用陶器を志すことに定まり、窯の名称を地名より「出西窯」と改めました。 以後、柳宗悦先生、濱田庄司先生、バーナード・リーチ先生ら民藝運動の推進者たちの指導をうけ、実用の陶器作りに邁進してまいりました。 現在も、島根県出雲市斐川町出西の地で、民藝の志を持ち、野の花のように素朴で、健康な美しい器、くらしの道具として喜んで使っていただけるものを作ろうと祈り願って同人の心を一つに仕事をしております。 株式会社 出西窯 〒699-0612 島根県出雲市斐川町出西3368 ℡0853-72-0239 HP http://www.shussai.jp/ 創業者の一人である多々納弘光が創立45年時(1993年)に寄せた文章です。出西窯の詳しい歴史が記されています。 30年近く前に書かれたこの文章は、2020年を越えた今でも変わらずに私たちが忘れてはならない志です。 創業者の思いとともにどうぞ一読いただけたらと思います。 概略についてはこちらもご参考下さい。 https://www.shussai.jp/history/biography/ 【おかげさまの道、よき師、よき友】 ~出西窯四十六年※をふり返って~ ※1993年当時 ◆出西窯  今夏八月三日、出西窯は創業四十六周年を迎えました。苦楽を共にした同人五人、皆元気で働いておりますが、出発の頃二十歳の若者だった私達も、揃って六十五歳の坂を越えました。おかげさまで、三十年の経験を積んだ中堅の二名、修行に励む若者六名、裏方を支える協力者五名を合せて只今十八名、先年来灯油の小窯も併用しながら、六室の登り窯を年に八回焚いて、実用陶を作っています。 作りの仕事は楽しくて、今後一緒に仕事を続けますが、この間の創業記念日を節目に、分担して運営した業務を、若い世代の皆にバトンタッチいたしました。  私達には、世代をこえた共通の願いがあります。 一、 健康なあたたかい暮らしの器作りの願い。  ○郷土の土や釉の原料を大切にする仕事  ○手仕事。手の延長の小機器は利用しつつ。  ○実用の陶。腕を磨いて数多く、安価に。 二、それぞれを生かし合う温かい集団の願い。  ○無自性(おかげさま)の生活、自戒不裁他。  願いと現実の隔りは大きく、道遙かなことも、バトンタッチに当り、確認し合いました。  一つの節目を刻んだ今、四十六年を振返って、まことに此上ない良師に次々とめぐり合い、仕事と暮しを一つに結ぶ教えに導かれる倖せは何にも勝ってありがたく、沢山の方々のお護りと共に、すべてそのおかげに感無量です。 ◆集団の誕生と創業  大戦末期長崎で学んだ私は、不思議に原爆の災禍は免れましたが、生きる目標を失って心も体も病んで休学帰郷しました。病床の読書の中で、河合栄次郎先生の著書『自由主義の擁護』に強い感銘をうけ、小学同級の竹馬の友をさそって勉強会を重ねました。夫々に恵まれている夫々の花を、耕し育てる日々の悦びを個々の願いとして、それを扶け合う新しい理想の村を、自分達で築こうと五人の集いを結びました。  新しい村にふさわしい仕事を模索するうち、多々納良夫の生家の土が陶土と聞いたこと、父重成が戦前陶芸を楽しんでいたことから、関心を深め、昭和二十一年秋、中島空慧が先駆けて袖師窯に入門し、陶器作りに一歩をふみ出しました。  翌年の八月から一年がかりで、生家の牛舎と納屋を改造してロクロ場を、裏山に窯を築く工事を手作りしました。農協で借入れた六万円は、当時大工一人役百五十円の記録から今の六百万円位でしょうか。技術指導はすべて隣町にあった県の試験場窯業科松原技師に頼り、二十三年九月には初窯を出しました。  仕事場作りを始めた後、私は学校に復学しました。徳永新太郎先生は私達の共同体理念と陶器創業を喜んで下さって、ぜひウイリアム・モリスを研究するようご指示いただき、図書館に通ってモリスに取組み、手工芸の意義と新しいギルドについて、モリスの生涯を尽くしての実践に感動しながら、私達の進路の啓示を受けました。 ◆父の死と民芸の教え  昭和二十四年春、私の卒業を機に、陰山千代吉が公務員を、井上寿人が国鉄を退職して全員で農業をしながら陶器作りに専念する態勢が揃いました。しかし私達の共通の小学校恩師中島義和先生と共に支援してくれた父が、重病となり、借入の金も使い果して、苦労は次第に厳しくなりました。そんな時、松江から染色工芸の金津滋さんが来訪され、次の日再来して、「君達の仕事には美しさも、志も見えない」と柳宗悦先生の『私の念願』を与えられました。  生家の土蔵から桐箱入りの骨董品を取り出して参考にしながら、有名高価鑑賞の芸術品こそと思っていた私どもにとって、無名職人、無銘の実用雑器に宿る美という教えは驚きでした。柳先生の本を次々借りて父の病床で読み続け、河合栄次郎、ウイリアム・モリスから受けた理念が、その延長線上で結晶する感激にみたされました。  秋、父が逝き、経済的行きづまりの一方で、無名に徹して、ふだん使いの器を作る道に入るべきか、五人の意志が一つにまとまるまでには、長い話合いと曲折がありました。 ◆民芸の師父達  深刻な行きづまりの最中、昭和二十五年の初夏、河井寛次郎先生におすがりすべく上洛しました。それまでの足どりをご報告して懇願いたしました私に「よし、その舟に乗ってやろう」と慈悲のお言葉に感涙をおぼえました。  盛夏八月、ハイヤーで出西にお迎えする途中、大津の町なみを走る車中から、店先に積上げてある黒い瓦器を見つけて急停車を命ぜられ、その中の一点を抱き上げられました。  それは日本海の漁師が舟上で使う火鉢で、釣鐘に似ているので、釣鐘火鉢と呼ぶ物でした。その夜先生は、「何という驚くべき型だ。これこそ出雲の造型の血の結晶の型だ」と讃えられ「美を追はない仕事、仕事の背後から迫ってくる美」について、出雲の風土と暮し、実用一筋の仕事に宿る美の摂理をお説きになり、その夜迷いはなくなって、用の器一途の外に道はないと心が決まりました。  二十七年春、多々納良夫が浜田庄司先生に研修を許され、益子に行きました。以後、試作の物をたえず見ていただきました。「一つの物を一万箇繰り返し作れ、自ずとものになる」「知恵の実を食べ終った職人は、自分の物の良しあしの判る眼の物差しを磨かねばならぬ、その湯呑の高台は○ミリ高すぎるが、判るか」、と安易な職人論を戒められました。厳しい批評にしょんぼりすると、「帰りに京都の河井に寄って、飴玉をもらえよ」と破顔なさったこともなつかしい思い出です。  バーナードリーチ先生が布志名で滞在製作された二十八年五月、舩木道忠先生のご配慮で研修を許され、十日間通いました。私達がモリスに感銘したことも縁となって、三度もご来窯下さって、その都度お手本を製作され、三十九年十月の二日間は、夜お話を聞き、昼は手をとってのご指導うれしく、今も心があつくなります。特にコーヒーカップ、ピッチャーのハンドル作りはその後直伝の手法で、何十万箇作ったことか、「そのカップに唇あてて喜びあるか」と仰せの言葉が耳底に聞こえてまいります。  鳥取民芸協団に参加を許され、製作と経営両面を導き授けて下さった吉田璋也先生。  柳師の教えを、真と善に直結する、日々の美の悦びを生活しながら、尊い背姿で伝道して下さった外村吉之介先生。外にも沢山の良師のおかげを記す紙幅が尽きたことをもどかしく思います。 ◆才なき者・無自性  昭和二十八年六月七日、柳宗悦先生の公開講演が鳥取市図書館で催され「心の場」という題でのお話でした。出西窯について言及され、 “五人の青年が協力し、新しい窯を築いて仕事を始めた。その人たちは「工芸の法則は才能のない者でも良い仕事が出来ることを約束していると聞き、それを信じて仕事をしています」といっている。その心掛けに間違いはないが、問題はどれだけ自分の小ささを見ぬいてのことだろうか、その態度に甘えたものがあってはならぬ。もっと厳しく自分達の心を判らねばならない”後略、  製作品を左右する根本は心の場、とのお諭しは四十年を経た今いっそう大切な宿題です。  広島原爆の後出家され、隣町の隆法寺にご入山の、山本空外上人に帰依するご縁は、父の死の翌年の初夏で、河井寛次郎先生の門を叩いた時と同じ頃でした。世界的哲学者のお上人は、東洋と西洋の思想を、「アミタ」と「ト・ヘン」一如の真理にまとめて、回り合う相手(人物事の一切)も自分も共に生かし切る生き方ともいえる、無二的人間形成を説かれ、八十年、念仏三昧の行を行じつつ、無二的生活をなさっています。私達は四十年、その尊いお暮らしを、生きた法然さまと敬仰し、幾度も、迷いや、共同の乱れを救っていただきました。  昭和四十年頃、和合を欠いて悩んだとき、「衆縁に従るが故に必ず自性無し」と陶板に書いて、夫々の心の拠所にと授かりました。  何も彼もおかげさまで、自分の手柄などどこにもあらうはずがない、それが無自性とお説きになりました。  用にこそ宿る自然な超個性の美。美醜二元を超えた不二の美を、物に即して提示された民芸の師父達の教は、無自性、おかげさまの美と一如でございました。  世代を超えて進むべき大道を恵まれた倖せを、たしかめながら、おかげさまの日々の仕事を、共々に励むほかはありません。 多々納 弘光記(創業同人) 東京国立近代美術館ニュース 現代の眼 1993年10月号より